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【三代目桂 米朝(かつら べいちょう)】1925年(大正14年)11月6日 – 2015年(平成27年)3月19日)は、日本の落語家。本名、中川なかがわ 清きよし。出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』
。俳号は「八十八(やそはち)」。所属は米朝事務所。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。
旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。
若い頃から尼崎市武庫之荘に在住し、同町の発展や景観維持などにも貢献していた。
生い立ち
1925年、関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区)に生まれた。4歳のころに奉天(現瀋陽)ヘ転居。実家は兵庫県姫路市の九所御霊天神社の神職であり、祖父の死去に伴い、父が1930年に実家を継承するために一家揃って姫路に帰郷した。米朝自身も上京前に周囲の勧めもあって神職の資格を取得しており、落語家になる前には実家の神社の禰宜(ねぎ)を務めたこともあったという。幼少時代から落語や浪曲に親しみ、父や演芸好きの叔父に連れられて西花月亭や南地花月にもよく通っていた。
上京、正岡との出会い
旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業後、1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。在学中、作家であり落語・寄席研究家でもある正岡容(蓉)主催の珍しい落語会を見たことを機に正岡に入門。正岡一門の一番弟子となった。正岡を通じ5代目笑福亭松鶴や、大阪の映画館主の息子であった矢倉悦夫(のちの3代目桂米之助)と知り合いとなった。
太平洋戦争終りの前後
1945年2月に応召し、入隊するが急性腎臓炎に倒れて、3月には地元の陸軍病院に入院。三田の療養所に転院の後、8月12日に退院し、姫路の実家で太平洋戦争の終結を迎える。この頃、慰問で病院に訪れた橘ノ圓都と出会うことになる。大学には復学せず、神戸市の神戸生活用品商事で会社員となり一介の落語愛好家として落語会や素人落語の上演会を主催するなど、上方落語復興に力を入れていた。
本格的に落語家へ
矢倉が3代目桂米之助となったことが縁で、後に師匠となる4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。この時に「高津の富」を教わる。
やがて、師・正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る。一旦勤めを辞めて米團治宅の内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の広畑郵便局員として1年ほど勤務した。その後、師・米團治の死に遭い、落語のみに精進する事を決意する。
初舞台
戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座やうめだ花月に出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。
テレビ出演と落語研究家活動
1958年頃には朝日放送専属となり、放送タレントとしても、1960年代以降は、『ハイ!土曜日です』、『お笑いとんち袋』(関西テレビ)や『味の招待席』、『和朗亭』(朝日放送)など多数の番組に出演して大人気を博した。一方で、落語研究家としても活動を行い、文献から発掘したり落語界の古老から聴き取り調査をしたりして、一度滅んだ噺を多数復活させている。彼によって復活した演目としては「算段の平兵衛」「風の神送り」「矢橋船」などがある。また上方文化の交流を深める「上方風流」を1963年から結成し「上方風流」を発行(1967年まで活動)。
上方落語四天王らの復興尽力
入門当時には衰微を来たしていた上方落語の復興を願い、共に上方落語四天王と讃えられた6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治らと東奔西走して尽力した。現在の上方落語の隆盛は米朝・松鶴らの功績であるというのが衆目の一致する処である。一言に東奔西走といっても、地方においては昭和40年代(1965年 – 1974年)であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。地方に於ける落語の一般的認知は複数の演者が舞台に上がり問答で笑いを取る大喜利、演芸テレビ番組の『笑点』が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかったのである。
文化貢献への評価
1987年4月29日、紫綬褒章を受章する。1988年には上方落語協会の選挙で一旦は会長に選出されたが、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退したため、「米朝会長」は幻に終わっている。四天王としては唯一、会長に就任していない。1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。また、2002年11月3日には、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。
晩年
2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹出血と診断され入院したが、いずれも軽度で済み、早期に活動復帰している。同年11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となった。
2013年1月の米朝一門会を最後に高座から遠のき、2013年8月、肺炎のため入院。10月に退院するも、再び入院し2015年3月19日19時41分、肺炎のため死去。89歳だった。諡は「中川清大人之命(なかがわきよしうしのみこと)」。4月17日に日本政府は、三代目米朝が上方落語界発展に尽くした功績を讃え、没日に遡り従三位に追叙することを閣議決定した。
墓所は姫路市の名古山霊苑内。同市名誉市民として同霊園に築かれた「名誉市民墓」は、上から見ると「米」の字をかたどった形に石が配されている。
(ウィキペディアより)
【あらすじ(上方落語)】
呉服屋の主人・五兵衛[1]は極端にゲンをかつぐ習慣があった。
ある年の元日、恒例の井戸の若水くみを下男の権助に命じた。主人は「あらたまの 年立ち返る 朝(あした)より 若やぎ水を くみ初(そ)めにけり」と歌を詠み、「これはわざっとお年玉」と唱えてダイダイを井戸へ落とすのだ、と、しきたりを権助に教えるが、権助は井戸へ行くとそれらを忘れてしまい、でたらめに「目の玉の でんぐりかえる 朝より 末期(まつご)の水を くみ初めにけり。これはわざっとお人魂」と言った、と主人に報告した。あまりに縁起の悪い言葉ばかりなので、主人は驚きあきれる。
主人一家および奉公人一同が座敷に集まり、祝いの雑煮を囲んでいると、小僧の定吉の雑煮の餅の中から古釘が出てきた。番頭が「餅の中からカネ(=金属)が出ました。これは金持ち(かね・もち)になるという吉兆でございます」と言って主人の機嫌を取ると、権助は「カネの中から餅が出たなら金持ちだが、餅の中からカネが出たなら逆で、身上(しんしょう=財産)を『持ちかねる』だ」と言って、主人から叱られる。
主人は年始の挨拶客と持ってきた贈答品とをリストに整理するために、権助(あるいは定吉)を呼んで挨拶状の読み上げを命じる。客の屋号と名前を全部読み上げると非効率なので、主人がそれをうまく省略するように言うと、権助は「湯屋の勘助」を「ゆかん(湯灌)」、「石屋の藤兵衛」を「せきとう(石塔)」などと言って主人を困らせる。番頭は機転を利かせて「鶴屋の亀吉」を「つるかめ」と略し、主人の機嫌を治す。
二日になると、「船屋」と呼ばれる、初夢のための縁起物である宝船の絵を売る行商人がやって来る。主人が値段を聞くと、船屋は「1枚4文(しもん)」と言う。「し」の字を嫌う主人は機嫌を損ねてしまう。番頭は主人の機嫌を取りたいあまり、外で別の船屋をつかまえ、「小遣いをやるから、うちの店で『1枚よもん』と言って売れ」と入れ知恵をする。「1枚いくらだい」「『よもん』でございます」「10枚なら?」「よじゅうもん」「100枚なら?」「よひゃくもん」
機嫌をよくした主人は、絵を全部買い上げ、その船屋を座敷に上げておせちや酒をふるまう。船屋はおせちをほめ、主人の娘を弁天様、主人を大黒様、と持ち上げるので、主人はさらに上機嫌になって次々と祝儀を渡す。船屋が「この家には七福神がそろってますね」というので、
「おいおい。私が大黒で娘が弁天なら、まだ二福だよ」「でも、扱う品物が呉服(五福)でございます」
バリエーション
上方の『正月丁稚』は、主人の名が渋谷藤兵衛(しぶや とうべえ)に変わり、権助の役割をほとんど定吉が担う。客の名を読み上げるシーンは年始の挨拶回りのシーンに変わり、船屋は登場しない。雨が降ってきたところを定吉が「降るは千年、雨は万年」という地口を言ってサゲる形式が多い。
(ウィキペディアより)