0:48つる 18:47八五郎坊主 39:06百年目 1:20:58寝床 1:59:06エンドトーク
「つる」
元は「絵根問」という噺の最後の部分だったが、四代目桂米團治が独立させてまとめたとされる。のちにガリ版印刷の『桂米團治口述 上方落語台本』に記し若手落語家の稽古本となった。前座噺として扱われることが多い。江戸落語では桂歌丸の口演が有名。物知りから教わった話を愚か者がマネして失敗する典型の噺である江戸版と上方版で多少内容が異なる。江戸版は隠居の所へ来た八五郎が散髪屋で鶴の掛け軸を見たと話し、鶴の由来を聞くと隠居は、「雄がつーっと、雌がるーっと飛んで来たので、つるという名前になった。八五郎は、他のところで披露しようとするが失敗してしまう。上方版は散髪屋で物知りの男に話を聴いたアホの男が散髪屋にあった掛軸の鶴の絵について尋ねると「雄がつーっと雌がるーっと飛んで来たので、つるという名前になった」その話しを訪れた先で披露しようとして失敗する。
「百年目」
古典落語の演目。別題として「番頭百年目(ばんとうひゃくねんめ)」船場の商家を舞台にした大ネタで、遊び人の番頭が遊び先で偶然店主(大旦那)と出会って起きる騒動を描く。船場のさる大店。長年勤めている番頭の次兵衛は店では律儀な堅物で通っているものの実は大変な遊び人である。得意先廻りに行くと店の者に嘘をついて出かけると、粋な着物に着替えて大川へ向かい、手配してあった屋形船に乗って芸者幇間をあげてどんちゃん騒ぎをする。たまたま店の大旦那が花を見にそこに来ていた。番頭に気づいた大旦那は気を遣って避けようとするが、目隠しされた番頭は芸者を捕まえたつもりで目隠しを取るとそこにいたのは大旦那で・・・。
三代目 桂 米朝
現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興に大きく貢献した。その功績から、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。位階は従三位。戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座やうめだ花月にも出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。
「寝床」
古典落語の演目。別題に「寝床義太夫(ねどこぎだゆう)」「寝床浄瑠璃(ねどこじょうるり)」「素人義太夫(しろうとぎだゆう)」「素人浄瑠璃(しろうとじょうるり)」。原話は、嘉永5年板の「醒睡笑」や安永4年の笑話本「和漢咄会」の一遍「日待」など、多くの江戸小咄に見られる。元々は「寝床浄瑠璃」という上方落語の演目で、明治中期に東京へ移入された。大家さんは義太夫語りが大好きですぐ他人に語りたがるが、あまりにも下手なので誰も聴きたがらない。この日も義太夫の会を開こうとおいしい料理と酒を用意し、番頭に長屋の店子たちを呼びにやらせるが、提灯屋、金物屋、小間物、鳶、豆腐屋と誰もが仕事を言い訳にして断ってくる。ならばと店の使用人たちに聞かせようとするが全員仮病を使って聴こうとしない。妻は子を連れて実家に避難してしまう・・・
「八五郎坊主」
「八五郎坊主(はちごろうぼうず)」は上方落語の演目。にわかに僧侶になった男が、文字の読み方を知らないために起こる騒動を描く。宇井無愁は原話として以下の3つを挙げる。東大落語会 編「落語辞典 増補」は、本演目を「平林」や「波平行安」と同趣向の話とする。八五郎がにわか坊主となって剃髪してすぐに「法春」という法号をつけてもらう。しかし読み方を忘れてしまい、人に聞くことにした。すると最初の人は「 春日」の「かす」から「ほうかす」と読み、別の人に聞くと「かす」と読むなら「法」は「のり」と読まないとおかしいと言われて八五郎は「のりかす? それなら摺るなりつけるなりや」と話す。宇井無愁は「のりかす」は染織や印刷に使用する糊のこととする。「サゲの意味も上方の言葉を理解していないとわかりにくい。東京では非常に損な噺である」と保田武宏は評している
桂 枝雀
入門時から稽古には熱心で、深夜の歩行中にネタ繰りをして警察に通報されたり、ネタ繰りに没頭するあまり掃除機を部屋の随所にぶつけて什器を壊したりした。米朝の妻は、「周りを気にせずのめり込む人は、後にも先にもあの子のほかにはいなかった」と評している。この「私生活の間も落語の稽古をする」という習慣は、枝雀として名をなした後年も変わらなかった。1973年(昭和48年)10月に道頓堀角座で「2代目桂枝雀」を襲名。この襲名は、6代目笑福亭松鶴の「小米には枝雀という名前がええで!」という意向で決まった。これを機にそれまでの落語を大きく変える。初代桂春団治にもたとえられる所作や声の激しい芸風となり、多くの観客を爆笑させ、大衆的な人気を得た。1997年高座で「鬱なんです」と告白し、客席の笑い声に「笑いごとじゃないんですよ」と続けた。この会の後、出演を控えて闘病生活に入る。復帰するものの満足のいく口演が出来ず1999年自宅で自殺を図り病院に搬送され同年4月19日に心不全のため死去。満59歳没。遺書やそれらしい発言は全くなく、真相は不明。
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