『国策漫才』『国策落語』…戦争に利用・翻弄された“お笑い”【報道ステーション】(2025年8月13日)

人々の娯楽であるはずの漫才や落語。戦時下では人を楽しませるものから、人の生活を変えようとする違った役割に変化していきました。

■戦争とお笑い 残された記録

お笑いと戦争の結びつき。それを伝える資料が朝日新聞大阪本社に残っています。

フォトアーカイブ編集部 古川博次長
「これが“わらわし隊”の写真が保存されている箱」

そこにあったのは、日中戦争が行われていた1938年に撮られた写真。太平洋戦争前夜、漫才や落語を楽しむ兵士たちの笑顔を写し出していました。朝日新聞と吉本興業が共同で組織した慰問団『わらわし隊』。

当時、国民的な人気を誇った漫才師や落語家たちが兵士たちの気持ちを慰め、士気を高めるために部隊や病院を巡りました。

■迫られた役割“国策漫才”

人を楽しませるお笑いは、戦況の悪化と共に違った役割に変化していきました。当時を知る、藤田富美恵さん(86)は。

漫才作家・秋田實さんの娘 藤田富美恵さん
「“漫才戦争中”と書いて、色んなタイトルが書いてある。父が雑誌から切り抜いたような作品がいっぱい入っていた」

父親は横山エンタツさんなどの作品を手掛けた漫才作家・秋田實さん。今も親しまれる“しゃべくり漫才”の先駆者です。漫才作家たちは、国民の戦意高揚を目的とした標語、いわゆる「欲しがりません勝つまでは」などの言葉を伝えるよう、国に強いられていたといいます。いわゆる“国策漫才”です。

『大東亜遊覧飛行』(1943年)作・生野三千男
松竹ワカナ(ミスワカナ)
「今じゃアジア12億の国民にね、1人残らず大東亜共栄圏ということを飛行機の上から見せてやるんです」
玉松一郎
「なるほど、アジア人のアジアですな。アジアに生まれたアジア人の喜びをアジア人に味合わせてやるわけですか」
松竹ワカナ(ミスワカナ)
「うわぁ言いにくいな。アジア人におじや食べさしたら、よう食べへん」

その求めは秋田さんのもとにも届いていました。漫才のタイトルは『貯金戦』。

漫才作家・秋田實さんの娘 藤田富美恵さん
「戦時中は『貯金しなさい』という標語がよく出ていた。貯金を勧める漫才。国策ですよね。勧めているんですから、出た標語を」

■庶民の苦しさ伝えた“国策漫才”

巨額な戦費の調達などのため、国民の預貯金や公債があてられていました。貯金や貯蓄を勧める標語も多く作られています。それでも秋田さんは国に迎合せず、漫才の技法を使って“庶民と笑い”を守ろうとしました。

『貯金戦』作・秋田實
A
「大いに頑張って八十億の貯金をしませう」
B
「そら、無理や。僕とても八十億圓もよう貯金せん」

漫才作家・秋田實さんの娘 藤田富美恵さん
「父は『標語を広報しなさい』と言われた時、そのまま伝えるのは漫才作者として腹が立つと。嫌だと。その時に思いついたのが対話形式。1人が言ったら『言ったらあかんやないか』と否定すれば、一応言ってないことになる。そういう感じで(検閲を)くぐり抜けた。庶民側に立って、庶民の苦しさも一生懸命伝えていた」

■戦意高揚の“国策落語”

利用されたのは落語も同じでした。落語家の二代林家三平さん(54)。三平さんには9年前から毎年続けていることがあります。

落語家 二代 林家三平さん
「今から80年前ですか。軍部の言うとおりに噺家も動かないといけなかった。軍部からこういう噺をやったらと勧められたのが国策落語」

“国策落語”の上演です。その1つ『出征祝』は、召集令状が届いた若旦那のために特別な食事を用意しようと好物を言い合うところからオチに向かいます。

『出征祝』(1941年)
番頭
「テルどん、お前は何が食べたい」
丁稚
「あたいですか。なんでもいいんですか。だったらビフテキ」
番頭
「ビフテキ。それはダメだな」
丁稚
「え、何でです」
番頭
「贅沢はテキというぐらいだから。おい権助、そんな所でモジモジしてどうした」
丁稚
「おら、食い物はどうでもいいや」
番頭
「え」
丁稚
「これあるか」
番頭
「これ?」
丁稚
「これだ、これ」
番頭
「酒か。あぁなるほど。権助、お前酒好きだかからな。一升瓶を2本買ってきてある」
丁稚
「これは若旦那様、縁起がいいな」
番頭
「ん、縁起がいいか?」
丁稚
「一升瓶が2本だろ。2本勝った。日本勝った」

■“国策落語”庶民も噺家も翻弄

今から10年前、三平さんは国策落語に出会いました。きっかけは、落語の歴史を研究する柏木新さん(77)が持つ1冊の本でした。当時の人気落語家3人の名前で出版された『名作落語三人選』。3人のうちの1人は三平さんの祖父・林家正蔵さんでした。

話芸史研究家 柏木新さん
「林家正蔵師匠が、戦争の時に作った国策落語がある。この国策落語の台本があるよと」

本の題名はごく普通ですが、表紙をめくると国民の戦意高揚のための作品がずらりと並んでいます。国策落語は書籍として発売されたほか、人気の娯楽雑誌にも掲載されていました。新聞やラジオが代表的なメディアだった戦時中。文字に起こせる落語は寄席を聞きに来る人以外にも、標語を広げる手段として利用されていました。

話芸史研究家 柏木新さん
「どうやってそれを広げるか。結局、庶民の生活に一番近いのが落語。レコードにもなる。『貯金夫婦』というレコードもある」

落語家 二代 林家三平さん
「庶民的で、いつも楽しんで親しまれた芸人さんから『戦争に行きましょう』『お金貯めましょう』『みんな兵隊になりましょう』と言われたら、なった方がいいのかなと思いやすい。宣伝の材料として使われた」

戦争は林家一門を翻弄しました。軍服姿で写る青年は“昭和の爆笑王”と呼ばれた父・初代林家三平さんです。

落語家 二代 林家三平さん
「うちの父は特攻隊員でした。敵があがってきたら爆弾抱えて突っ込んで、戦車ごと自爆しろ。お前らが行う使命だと」

国の求めに誰も抗えなかった戦時中。国策落語は庶民にどう受け止められていたのか。当時の雑誌には「笑いと涙の人情噺こそ、今日の国民を最も慰めるべきであろうに」と書かれています。

終戦から80年。三平さんは祖父が遺した国策落語を伝え続けています。

落語家 二代 林家三平さん
「罪悪感があった噺家はいたと思う。うちのおじいさんはそういう気持ちもあるけれど、なおかつ父(初代三平さん)を行かせたくないという忖度(そんたく)の気持ちがものすごくあった。もう揺れ動いていたと思う。この噺でしか笑えなかった時代にまた突入するんですかと疑問を投げかけるうえでは、国策落語をやっていく意味はある。ライフワークとしてずっとやっていきたい」
[テレ朝NEWS] https://news.tv-asahi.co.jp


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